植村花菜先生薩摩と奄美と島妻

http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110310spn00m200008000c.html

植村花菜(28)がこのほど、祖母和嘉さんの故郷・鹿児島県沖永良部島を初めて訪れた。島の親戚と対面した際に家系図を見せられ、自身が明治維新の元勲、大久保利通の異母姉妹の末裔(まつえい)であることが判明。

植村先生は大久保利通の異母姉妹の来孫(ひ孫の孫)、と。

伊勢さんから見せられたのは家系図。近代日本の礎を築いた大久保利通の父で薩摩藩士の大久保次右衛門が、島に赴任してきた際にめとった島妻(現地妻)との間に生まれたタケの孫が、和嘉さんの父親であることが記されていた。

「島に赴任してきた際にめとった島妻(現地妻)」とかさらっと書かれている。当時はこういうのが当たり前だったのだろうか。


(追記)大久保利世 - Wikipedia

2回にわたる沖永良部島代官付役在任中、沖永良部島のチカヒルヤ(屋号)の筆との間にタケとマツの2女をもうける。藩法により、島妻と子ども達は連れ帰れなかったため、3人を残して鹿児島に戻る。


(追記)島妻関連。
小説『あんご愛加那』を読む | 島唄まれまれ

藩政時代に、奄美に支配者として赴任して来た薩摩役人に対して、その赴任期間中のみの「島妻」を「あんご」と言う。この「あんご」は、いまでも奄美のひとびとにとっては、語るに躊躇を覚える存在であろう。つまりおおらかに語られる名辞ではないということである。島側にとっては、女性の性を薩摩役人に提供することで、支配者に対して、その統治を緩和させることが期待された。また、役人との間に産まれた子どもが将来島の統治者(島役人)になるという「あんご」を差し出した一族の恩恵も付帯していた。著者のあとがきを読んでいると、愛加那の一族の方との友誼もあってこの小説を書くにいたったと書いているが、「あんご」という名称を前面に出すことで、薩摩と奄美の関係(支配と被支配)が明確になり、曝されすぎるもの(性を提供される側とする側の位置関係)、いつまでたっても恥辱であること(島妻という存在そのもの)が、一挙に吹き出してくることを、どれほど自覚していたのだろうかと、思った。


「月桃夜」にみる奄美06 | 島唄まれまれ

薩摩藩士の現地妻であるアンゴ(島妻)として、身内の女性が指名されることは、「薩摩世」の当初は奄美の住民にとって屈辱だったのです。しかし薩摩の支配は巧妙でして、そのアンゴと薩摩藩士との間に産まれた子どもが薩摩に上国して教育を受け、シマに帰ってくると、島役人に登用され、一定の社会的地位を占めるようになるのです。こうして薩摩と姻戚関係を持つ家が奄美の中でも優勢になっていく。すると、奄美の支配層が自分たちの関係する女性をアンゴに差し出すようになっていくのです(西郷隆盛のアンゴである愛加那もまた大島の名家の一員でした)。ですから、アンゴになるということは、特にヤンチュにとって階級上昇のまたとないチャンスなのです。

でも注意しておくべきことは、今でも奄美の人たちは、アンゴに対しては複雑な想いを抱いているということです。決して過去の忘れ去られた事象ではありません。そして、あっけらかんと語り合う対象でもないのです。


奄美を学ぶということ | 島唄まれまれ

たとえば在日韓国・朝鮮人の世界では、青少年に民族教育をさずける教育機関があります。また華僑の子弟を教育する学校も神戸にあります。


奄美に関しては、日本国に属するということもあり、とりたてて「民族教育」を施す機関はありません。
...
奄美に関しては、奄美に住んでいても、奄美の歴史や民族を学習する機会が少ないために、奄美のことを知らないシマンチュが多いことは残念なことです。


こうした事態を憂慮して、沖縄ではすでに社会科の副教材として沖縄史のテキストが作成されて教育現場に反映されていますし、沖縄社会にもそうした学びを応援する姿勢があります。


では奄美でも可能ではないかと思うのですが、奄美は鹿児島県に属しているために、教育をほどこす管轄官庁である鹿児島県教育委員会は、奄美はあくまで県を構成する一地方であり、その一地方だけ特別扱いをするわけにはいかない、という姿勢です。


人生録 柏有度〜「日本砂糖産業功労者物語」

有度の生きた時代は、薩摩藩の財政維持・改善の為、その財源として奄美の黒糖が重視され、その増産に、最大の努力が注がれていた。その施策は極めて巧妙に、しかも残酷に仕組まれたので、いわゆる黒糖地獄と呼ばれる暗黒時代を呈するに至った。薩摩藩は、生産目標を次第に吊り上げていくにつれ、巧妙な手段により島人(しまんちゅ)を操縦し、一部の人々を利用して大部分の島人を酷使し、奴隷に近い家人制度{ヤンチュ、ヒダ}を生み出した。更に、島妻制度と呼ばれる女性の人権を無視した施策も行った


http://www16.ocn.ne.jp/~shiokaze/kaiki8.html

薩摩の役人に置き去りにされた島妻の亡霊が現世に立ち現れ、ほろ酔い気分で通りかかった男たちに、悪さをするという類型の身の毛のよだつ話が島妻にまつわる怪奇伝説として語られている。
薩摩の支配下では、「きれいな生まれの女は、島のためにはならない。ヤマトちょんまげのためにしかならない」とみる風潮があった。ひとたび役人たちにもてあそばれた女性たちは、役人が引き揚げた後は、村八分にあい自殺に追い込まれたという悲しい物語が少なくなく、彼女たちの亡霊は、今日でも自殺現場に現れるという。
亜熱帯の夏の夜の涼感をそそる怪奇話は尽きない。


http://yamakyu.main.jp/amakoba/old/newpage21.htm

まず、うらとみ・むちゃ加那についての伝説から入ろう。時代は薩摩藩政初期の頃。瀬戸内町加計呂麻島の生間という集落に「うらとみ(浦富)」という、島唄と三味線の上手い美人がいた。うらとみは当時、鹿児島から来ていた役人に気に入られ、島妻(本妻ではなく、島だけの妻)にと請われる。しかし、うらとみはこれをかたくなに拒む。両親は苦慮し、集落に迷惑のかからぬようにと、うらとみをある日小舟に乗せ(食料を積み)沖へ流す。


http://www.amami-jc.com/inbanari/blog.cgi?n=27&category=001

奄美群島の過去の歴史は薩摩藩の圧政時代そのほとんどが焼却・破棄されたと伝えられているし、又そうではなくそれらを保存していた藩の倉庫の火事によって消失してしまったという説もあるがいずれにしても灰にしてしまった事には変わりない。

そして薩摩藩の島民に対する圧政は横暴極まりなく島民は塗炭の苦しみを味わされたという話が代々伝わっていた、そういう昔話に対して無頓着な私は鹿児島の高校を選んで鹿児島の地で奄美の人々が島の衆(シマンシ)と呼ばれ侮蔑されている事を身をもって知り、下らない喧嘩の数を重ねた。